占星術とアロマをやっている緋彌華(himika)の雑記帳です。
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カテゴリ:旅の記憶( 6 )
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2005年 06月 29日 *
まだ梅雨のさなかだというのに久しぶりの雨で
ようやく気温が20度代に戻ってきました。

ここ4日か5日ほど続いた猛暑、昨日なんて37度でしたし!
半年前に引っ越してきて
まだ私の部屋にはエアコンを入れてないので
扇風機でしのいでいたのですが
パソコンが熱暴走しまくるという状態でした。

夜はロフトで寝ているので
さらに暖かさが身にしみて
なかなか寝付けないかな、なんて思っていたのですけど
そこのところは大丈夫のようで、いつもと同じように
横になると5分もかからないうちに
夢の世界へと誘われていきました。

そんな暑さのせいか
何年か前に体験した6月のインドの夜を思い出したりもしていました。

その日のインドは気温が45度から
ひょっとすると50度まであったのではないかというような猛暑でした。
正確な場所は覚えていないのですけど
そこは、あまり日本人が行くような所ではないのか
その地域では一番立派なホテルを選んで宿泊はしたものの
その部屋には、窓枠はあっても
ガラスが一枚も入ってないために、風通しがたいへん良いうえに
当然ベットも、ちょっと手を置いただけで
ギシギシと音を奏でるようなところでした。

しかし、いくら窓が全開で風通しが良くても
その晩は、ほんとに暑くて寝付けなくて
しかたがないので、バスタオルを水が滴るくらいにベタベタにして
それを体にそのままかけて眠ることにしました。

日本での常識では、そんなことをすると
風邪を引いたりなど、体を壊すに違いないと感じるのですが
それでようやく、体がちょうどいい状態になって眠りにつけるのです。

でも、しばらくすると、またすぐに目が覚めます。
そのときには、始めはまるで絞ってなかったはずのバスタオルが
もうすっかりカラカラに乾いているのです。
時計を見ると、眠りについたときから、まだ3時間しかたっていなくて
日も出ていない夜中の3時間で洗濯物は乾いちゃうんだって
感心してしまったものでした。

そして、もう一度シャワールームへ行って、バスタオルをベタベタにして
それを体に掛けて眠りにつくということを繰り返していました。

それに比べれば37度の気温なんて
ほんとに過ごしやすいはずなんですけど
やはりパソコンなどの文明の利器を使っていると
そうも言ってられないのが実情です。

なんとなく、何日分の着替えだけを持って
あちこち気が向くままに旅をしていたあの頃が
身軽で懐かしいな、なんて思ってしまったのは
やはり、暑さのせいなのでしょうか。

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少し時間ができたので
メインサイトの方をちょこちょこいじくってます。
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2005年 03月 08日 *
いままで生きてきたなかで
もっとも美しいと感じた風景はどこ?
と、もしも聞かれたとしたら
私はなんの迷いもなく
「インドのブッダガヤ」と答えるだろう。

私がそこに行ったのはインドが雨期に入る直前の
4月か5月くらいだったと思う。
インドが一年でもっとも暑い季節に
さしかかっていたときだった。

ブッダガヤはお釈迦様が
悟りを開かれた場所として有名なところ。

その中でも、私がその風景を切り取って
永遠に心に刻みつけたいと思った場所は
お釈迦様が悟りを開くための瞑想に入る前に
最後の沐浴をしたといわれている池である。

私が行ったその季節には
その池、一面にピンクの蓮が咲き誇っていた。

その蓮は日本ではまず見たことがないというくらいに
花びらの一枚一枚が厚く、大きく
色も透明感があって鮮やかで
それはそれは、見事なものだった。

そんな蓮がその池、一面に咲いているのである。

その光景をはじめて目にしたときは
時間が立つのも忘れて
しばらくそこにたたずんでしまった。

はじめはなにも考えることもできないくらいに
呆然とその美しい風景に見とれていたのだけど
しばらくしてくると
もしかしたら極楽浄土ってこんなところかもって
そんな思いがこみ上げてきた。

それまでは、極楽浄土なんて
あまり考えたことがなかったし
行ってみたいとかあまり思ってなかったんだけど
その風景を見たら
私も一度、行ってみたいなぁ、
なんて考えが出てきたことを記憶している。

その池から数メートルくらい離れたところだったろうか、
そこにはお釈迦様が瞑想をされたという
菩提樹の樹がそびえ立っていた。

そのためなのだろうか、
そのあたり一帯のエネルギーは
ほかではまず感じたことがないくらいに
まったく違ったものだった。

そこにいるだけで
心が満たされて、優しくなれて
宇宙との一体感すら自然に感じることができるのだった。

いまは、なかなか自由に出かけられない状態なのだけど
それでも、また機会があったら
ぜひ訪れたい場所のひとつです。
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2004年 11月 11日 *
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それを知るまでは、私は、暦というものは
全世界共通と思ってました。
しかし、ネパールには、ネパール独特の暦があって
いまでも、それを使っているようなのです。

その暦は、ネパールの首都であるカトマンズなら
どこにでも売られていて、
たいがいのその暦に登場する絵は、
ネパールの神様であるヒンズー教の神様と
ターラー女神などの仏教の神様が混在して12枚の暦の中に表されていました。

ネパールの宗教は、その暦が表すとおりに
ヒンズー教徒と仏教徒がそれぞれいて
あなたの宗教はなんですかと聞けば
ハッキリと、自分はヒンズー教ならヒンディーと
仏教徒ならブッディストと答えてくれます。

しかし、不思議なことに、聖地と呼ばれる多くの地には
ヒンズー教徒も仏教徒も同じように、その同じ場所に出かけるのです。

また、ヒンズー教に代表される、ビシュヌ神の7番目の化身は
あの、仏教の創始者ともいえるお釈迦様であったり
仏教徒の人もヒンズー教の神様である、
シヴァ神やビシュヌ神などを、きちんと毎日拝んでいたりします。

このように、ネパールという国は
二つの宗教が見事に共存して成り立っている平和な国でした。

ところで、ネパールの暦では、いまは2062年くらいなのでしょうか。
私はネパールの暦については、その意味はまったくわからず、
その起源などを、売っているお店の人に聞いても
ただ、I don't know という答えが返ってくるばかりで
やっぱりわかりません。

ただ、カトマンズでは
たくさんの旅行者のために、世界共通の西暦もとりいれているため、
お正月を二回、祝っています。
だから、カトマンズでの年末年始は、とてもにぎやかです。

クリスマスが近づくと、クリスマスのために
町中に飾り付けが始まります。
終われば、すぐに撤去して、いつもの町に戻ります。

次に、1月1日が近づくと、また、クリスマスのときと同じような飾り付けが
町中になされます。
そして、だいたい三が日が終われば、またその飾り付けが取り除かれます。

そして、いよいよ次は、ネパールのほんとうのお正月です。
私が行ったときは2月か3月くらいに、そのお正月は来たように記憶しています。
その時も、また、同じように町中に飾り付けが行われます。
ただ、その時は、ネパールの人たちにとっては、ほんとのお祝いなので
正装をした人たちが、ネパールのたくさんの神様たちを祭りながら
町中を行進していました。

このように、ヒンズー教や仏教とは、まったく無縁なキリストのお誕生日まで
そこにいる旅行者のために祝ってしまうネパールの人たちは
誰もが善良で優しくて、おまけに物価も安いので
私たちは、かなり長い間、そこに滞在してしまいました。

また機会があれば、ぜひ行ってみたい国のひとつです。
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2004年 11月 06日 *
今日はチベットに行ったときのお話しです。

もう、いまでは、映画「セブン・イヤーズ・チベット」などの影響で、
今現在、チベットが中国に占領されているということはご存じの方も多いと思います。
私が、チベットに行ったときも、中国がチベットを攻め入った影響が
まだ色濃く残っているときのことでした。

チベットは、そこに住むすべての人が信仰心に厚く、
極端な話、ほとんど一日中、祈りのために時間を捧げていると言っても
過言ではないほどです。

反して中国の方は、共産主義の影響のためか、
物質至上主義国であって、儒教などの教えはあるものの、
基本的には宗教というものを完全否定している国です。
そのため、宗教にとらわれているチベット人たちを、
宗教から解放して自由にしてあげようという名目で、
「人民解放軍」という名の軍隊が、
チベットの首都ラサでは、かなりのはばをきかせていました。

ラサに数多くある寺院も、そのほとんどが「人民解放軍」と名乗る
中国軍の手によって無惨に破壊されていました。
その姿を見るのは、旅行者の私でさえも、
大きな悲しみを感じさせずにはいられないほどのものでした。

また、チベットの人たちにとっては、
宗教の根本といっていい存在である「ポタラ宮殿」というものがあるのですが、
そこでは一日中、チベットの人たちは礼拝を続けています。

しかし、その宮殿の目の前に、中国国営のディスコを建てていた中国人の無神経さには、
私たちだけではなく、他の旅行者たちも憤りを感じていました。

旅行者の私たちでさえ、ひと目見て、その光景に大きな悲しみを受けるのです。
多くのチベット人たちは、チベットからインドやネパールに亡命して、
そこで信仰を続けているのですが、そこに残された人たちは、とうぜん、
心が屈折しているというのが、少し会話しただけでも伝わってくるのでした。

ポタラ宮殿の中は、そこの本当の主であるダライラマ法王が
インドに亡命されて留守にしているためか、
私が行ったときは、一般の人にも公開されて、
ある程度の中までは自由に見られるようになっていました。

そこの留守を守っている若い僧侶たちの中には、
中国軍が視界からいなくなれば、しきりに

「中国軍は解放とか自由を与えているのだとか、
きれい事を言っているが、これは侵略だ。
自分たちは本当は自由を奪われているんだ。」

と、旅行者に訴えている人たちもいました。
中国軍がいるところで、それを言えば、
政治犯として捕まってしまうというのが、その時の実態でした。

チベットは、どこへ行っても、そんな感じで、
私たちは重い気持ちのままポタラ宮殿を出たことを覚えています。

そんな気持ちで、宮殿の裏の広場を散歩していると、
そこに、とても小さなお寺をみつけました。
他に参拝する人もいない、そのお寺にゆっくり入っていくと、
そこでは若い僧侶がひとり、地面に座って、
お団子のようなものをいくつもこねていました。

その人は、私たちの姿を見ると、
人なつっこい笑顔で、私たちに挨拶をしてきました。
私たちも笑顔でそれに返しました。
そして、彼は何かを話しながら、お寺の中を案内してくれたのです。

それまで、チベットに入ってから、
そんな笑顔を見せてくれる人に会っていなかったので、
なんだかとってもホッとしたものでした。

ただ、彼は英語ができないし、私たちもチベットの言葉は話せないので、
会話は身振り手振りと、あと、ガイドブックにある片言のチベット語を話したり、
文字を見せたりしながら、なんとか会話をしていました。

そんな中での彼の話を要約してまとめると、
そこはターラー女神を祭っているお寺で、
そのお坊さんがひとりで管理して、
さきほど、こねていたお団子は、ターラー女神に対する
供物を作っていたということでした。

お寺をひととおり、案内し終わると、
今度は、彼はお寺の奥にある自分のプライベートルームに招待してくれました。
そこは、土間の上に台所と、手前にベット、そしてテーブルが置いてあるだけの、
とても質素なお部屋でした。

言葉が通じないので、ゆっくりと会話をしながら、
お坊さんにお茶と供物をごちそうになっただけでなく、
帰りがけにはお坊さんから大切な教典までいただいたのです。

そのお坊さんが私たちに対してそんなに親切にしてくれたのは、
おそらく、そのお寺の仏像や壁画は中国軍によって破壊されていなかったので、
その美しさに私たちはとても魅了されてしまい、
熱心に手を合わせていたので、そのお坊さんには、
それがうれしかったのではないかと思います。

私は、こんな逆境の中で、誰もが心がすさんでいるというのに、
そのお寺を守って、神に供養を続けるという使命感のためか、
とてもすがすがしい笑顔を見せてくれたそのお坊さんに、
本当の優しさっていうのは強さなんだって、
そんなことを言葉ではなく、エネルギーで教えてもらったような気がします。

私自身、自分の生活も思想もすべてが否定された状態で、
それでもあんなにさわやかな笑顔を見せることができるのか、
あまり自信はありませんが、なにか大切なものを、
そのお坊さんに与えてもらったように思いました。
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2004年 10月 28日 *
今回はインドの人の死に直面したときのお話しです。
こういう話が苦手な人は、
今日の記事は読まない方がいいかもしれません。



さて、インドのバラナシというところは、ガンジス川のほとりにある町で、
聖地として有名な場所です。

インドの人は死んだら火葬をして、
そして、その灰をガンジス川に流して、
お墓は作らないのが一般的なやり方だったりします。

死んだらすべて終わりでなく転生するという考え方なので、
亡くなった本人も遺族も遺骨への執着がまったくないわけです。

それでも「いい転生をしたい」という気持ちはあるので、
人生の最期に聖地にやってくるということのようです。

その場所がバラナシで、インドの人たちは
自分に死が迫ってきていることを感じたら、
バラナシに自ら赴くということは、
私も本なんかで読んである程度は知っていました。

私がそのバラナシに行ったのは、
インドでも一年でもっとも暑いとされている、6月のことでした。
バラナシに着いた夕方、私はダンナとふたりで、町をぶらぶらしていました。
暗くなりかけても、多くの人が町を行き交っていたのを覚えています。

その中で、私はふとひとりの老人の姿が目に入りました。
サドゥと呼ばれるヒンドゥー修行者の格好をしていたので、
お遍路さんみたいにどっかからやってきたのだと思っていました。

フラフラと杖をつきながら、
一生懸命にガンジス川に向かって歩いているその老人は、
川が見えると、その道路の一角でゆっくりと横になりました。

インドの6月は、日中になると、
ときには気温が50度にまで上がることがあるくらいの暑さです。
暗くなって気温が少しは下がるとはいっても、
ぐっすり眠れるような陽気とはいえません。

そのため多くのインド人は、家の中で寝るより、
外に出て、気ままにその辺に寝る人がたくさんいます。
なので、その老人が道路に横になっても、
それがまったく普通の風景になってしまっているので、
はじめはさほど気にもなりませんでした。

ただ、よく見るとその人は汗をかいていて呼吸も荒く苦しそうでした。
それでちょっと心配になったのですけど、
目が合うと本人がなぜか笑顔を向けてきて、
それから道を行き交う人も誰ひとりとして
その老人のことを心配する人がいないので、
私たちもなにもできずにその場から離れるしかありませんでした。

次の日になり、私たちは明け方5時くらいからホテルを飛び出し、
町の散策をはじめました。
6月のインドの日中は、日本人の私たちには、
とうてい動き回ることができない暑さなので、
涼しいうちに町を見学しておきたかったからです。

すると、ゆうべ見かけた老人が、
ゆうべと同じところに横たわっている姿が目に入りました。
でもよく見ると、その老人は、眠っているのではなく、
その場ですでに亡くなっている感じで、
まわりにたくさんのハエが集まっていました。

私はしばらく何ごとが起こっているのか理解できないまま、
呆然とその老人の様子をながめているしかありませんでした。

すると、道を行く人たちは、横たわっている老人に、
誰もが小銭を落として手を合わせていくのでした。

普段のインドは、みんなが貧乏で、
盗みなんて日常茶飯事のことだったりします。
小銭がこんなに落ちていれば、
いつもなら誰かが盗んでいって当たり前だという感じなのに、
その時は違っていたのでちょっと驚きました。


そして、何時間かして、小銭がある程度たまると男性たちがやってきて、
老人を布でくるんで運んでいきました。

そばにいたインド人の説明によると、
老人は望みどおり聖地で亡くなって荼毘に付されるということで、
みんながあげていた小銭は火葬の費用になるそうです。

ちなみに、バラナシでは
どうやら、こんな光景は日常茶飯事のことだということです。

遠くの地からバラナシを死に場所に選んでやってきた人が、
そこに横たわり、亡くなると、
見ず知らずの通りがかりの人たちがお金を出し合うのです。

そして、火葬するお金が貯まれば、火葬場の人がきちんと火葬をして、
最後にはガンジス川に流すのだそうです。

その時には、誰ひとりとして、お金を盗むものがいないどころか、
普段は泥棒をやっている人でさえも、小銭をおいていくということでした。

インド人の宗教心の深さというか、そんなものを感じました。

私がいまでも覚えているのが、前日に目が会ったときの老人の笑顔です。
苦しそうだったけどうれしそうであったのは、
きっとその場所で死ねることが老人にとって最高の幸せだったということなのでしょう。

死に顔も安らかで、はじめは眠っているとしか思えないくらいだったから、
本人にしてみれば最高の「人生の最期」だったにちがいありません。

ガンジス川は、インドの宗教であるヒンドゥー教の最高神である
シヴァ神が作られた川だといわれています。
輪廻転生を信じている彼らにとって、ガンジス川に流されるということは、
シヴァ神に次の生まで運んでもらえるということになるのかもしれません。

そこまで真っ正面から死に向き合っていける彼らに、
私は心のどこかで、いつも「うらやましい」と思っています。
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2004年 10月 20日 *
あれから、もう何年もたってしまっているのですけど
ダンナとふたりで、ネパール、インド、チベットなどを旅したときに
いまでも忘れられないことがあります。

それは、ネパールでのできごとでした。
ガイドなしで、ヒマラヤのトレッキングを
行っていたときの話です。

いまとなっては正確な場所は忘れてしまったのですが、
ヒマラヤに入ってから、すでに何日かが過ぎていた頃でした。

その時は、アンナプルナというコースを回っていたので
他のトレッキングコースと比べれば
比較的おだやかに感じる道が多く
山奥の村から村を歩いているという道がメインでした。

でも、その日は、うっそうとした森の中を
通って行かなければならず
まだ日も高く、晴れているというのに
その森の中は、かなり薄暗くて
私は少し不安な気持ちになったのを覚えています。

その森に足を踏み入れる前に、いま来た道を振り返ってみると
丘の上に大型の真っ黒の毛並みをした犬が
私の方を見つめている姿が目に入りました。

距離が離れていたし、毛並みが黒かったので
どんな目をした犬かそのときはわからなかったのですけど
なんとなく、落ちついた優しさを感じさせてくれる犬でした。

そんなことを思って、私もその犬を見つめていると
その犬は、私の方に勢いよく走り寄ってきたのです。
近くで見ると、思ったとおりの優しい澄んだ目をした犬でした。

そこで、私はその犬に、

「この森をダンナとふたりで抜けなければいけないの。
暗くて道に迷うかもしれないし、変な人に会っても怖いから
もしよかったら、森を抜けるまで護衛をして欲しいの。」

と、お願いをしてみました。

すると、その犬は、私の言っていることがわかったのか
私たちの先を歩き始めたのです。
そして、森を抜けるまで、ずっと私たちの側で
ほんとうに護衛をしてくれているように、一緒に歩いてくれたのでした。

暗い森を抜けると、そこは、いままでとはうってかわって
広々とした明るい草原が広がっていました。
ヒマラヤでは少し歩くと
すっかり景色が変わるということがよくあるのです。

すると、その黒い犬は、今度はまるで自分の役目を終えたかのように
何度も振り返りながら、いま来た道を帰っていったのです。

本当は、その犬を日本まで連れて帰りたいと思ったくらいに
その時に大好きになってしまったのですけど
どう考えても、窮屈な日本で暮らすより
大自然の中のヒマラヤでそのまま暮らした方が
その犬にとっては幸せに違いないので、
そのまま帰って行く犬を見送ることにしました。

その犬には、私は日本語で話しかけたので
言葉が通じたとはとうてい思えないのですけど
少なくとも、私の気持ちはすぐに伝わったのだということは
いまでも感じることができます。

そして、ときおり、あの犬どうしてるかなぁと
いまでも思い出してしまいます。
だって、わたしにとっては、大切な恩人ならぬ、恩犬なのですから。
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